ukifune

 

 おはようございます。今日は、8月17日、わたしが産まれてから16年が経ちます。蝉が外でわしゃわしゃと鳴いていて、ぶあつい入道雲が浮いています。遠くの空でゴロゴロと音が聞こえます。なんとなく、夕立の予感がします。冷房はつけていないのに、少し肌寒いです。
 リビングのソファの前で、母はわたしの写真を見ています。いつものエプロン姿ではなくて、胸のあたりにシャーリングの入った浅葱色のワンピースを着ています。母のお気に入りの服です。父はベランダでタバコを吸っています。いつもの、安いセブンスターです。タバコの煙でメガネが曇っていて、顔がはっきりと見えません。妹は、まだ自分の部屋でタオルケットにくるまって寝息を立てています。昨日髪を切ったばかりのようで、トリートメントをつけたさらさらの髪の毛が、あごのあたりでぱつんと切りそろえられています。長いまつ毛と細い鼻筋はわたしによく似ています。寝相が悪くて、いつもベッドの端っこのすれすれのところで寝るところも、わたしにそっくりです。
 わたしの部屋は、湿気がこもらないように窓が開けられています。母が、夏用の薄地の白いカーテンに替えてくれたようです。ベッドの上にもタオルケットがたたまれて置いてあります。妹とおそろいの、バンビの絵が入ったキルトのものです。本棚には、読みかけの本が積まれています。東野圭吾のミステリー小説を全部読破したくて、勢いでお小遣いをはたいて買ってしまったけれど、半分くらいで止まってしまいました。一番上の、確か、『人魚の眠る家』に巻かれた赤い帯は、日に焼けてオレンジ色になっています。わたしは登場人物の名前を覚えるのが苦手です。読み進めて、この人だれだっけ、となったらまた前に戻って、を繰り返すから、読み終えるのにかなり時間がかかるのです。『人魚の眠る家』はまだ半分くらいしか読んでいません。妹が小学校で作って持って帰ってくれた、黄色いリボンのしおりを挟んだまま、本棚の一番上に積み上がったままです。
 母が、わたしの部屋に入ってきました。学習机の上にわたしの写真を置いて、じっとそれを眺めています。校外学習で志賀高原に行った時、クラスメイトが撮ってくれた写真です。高原植物、というのでしょうか、オレンジや黄色の花が一面に咲きほこる場所で、わたしは満面の笑顔で、母はこの写真がお気に入りのようでした。でも、山登りで土に汚れたジャージ姿よりもっとかわいい服を着た写真の方がよかったな、と思います。
 母は、机の上に散らかったメモ用紙やシャーペンを一つ一つ手に取っては、またもとの位置に戻しています。わたし自身、何を書いたのかよく覚えていないものまで、母は大事そうに手のひらに載せるから、結構恥ずかしいな、と思います。クラスメイトと遊ぶ約束とか、いつものリップクリームがそろそろ無くなりそうだから買いに行かないと、とか、そういう、本当にささいなことばかり書かれているのです。机の下の、鍵がかかっている引き出しには、絶対に見られたくないものがたくさん入っているから、母に見られないかひやひやします。例えば、ちょっといいなと思っていたサッカー部の男の子に、バレンタインデーにチョコレートといっしょにあげたメッセージカードの下書き。授業中、こっそり数学の先生の嫌なところを友達といっしょにリストアップしたノートの切れ端。「悪い夢はノートに書けば現実にならない」と誰かから聞いて始めた、その日見た悪い夢を事細かに記録した日記帳。勉強のやる気が起きなかった時に、やけに厭世的な気分で書き殴ったわけのわからない詩のようなもの。鍵は、手紙が入ったアルミ缶の底に隠してあります。
 一階から、父の声が聞こえます。そろそろ行くぞー、と言っています。母は、今行くよと言って、スリッパの底をパタパタさせながらわたしの部屋を後にします。よかった、引き出しは開けられていないようです。
 ベランダには、父と妹が並んで立っています。母が、暑いから帽子を持っていきなさいと言って妹に麦わら帽子を手渡します。妹は、風で飛ばされそうだから嫌、と不満げな様子です。ほんとに暑いわよ、日差しも強いし。母はそう言って妹の頭に帽子をのせます。白いノースリーブのブラウスに、わたしのお下がりの、リネンの空色のスカートがよく似合っています。妹はわたしの3つ下ですが、わたしより背が高くて、父に似て手足が長いので、大人びたノースリーブの服もよく似合います。新体操を習っているおかげか、彼女のすらりと細くしなやかなからだを、ほんの少し、うらやましいと思ってしまいます。
 父が車のエンジンをかけます。母が助手席で、後部座席には妹ひとりです。わたしの席には、おさるのジョージのぬいぐるみが乗っています。うちの車は古くてエンジンをかけるとすごい勢いで揺れるので、ジョージも左右に小刻みに揺れて窓にもたれかかります。ジョージには、シートベルトが少し緩いようです。妹が、よいしょ、とジョージをまっすぐ座らせます。お母さん、もっとおっきいジョージにしようよ、とつぶやきます。いっつも倒れちゃうもん。母はそうだねえと言います。もっとおっきいジョージ、あったっけ。父が笑いながら言います。ジョージじゃなくてもいいんじゃないか。パンダとか、うさぎとか。もっとかわいいやつ。妹がすかさず答えます。だめだよ。おさるのジョージが好きだったんだよ。ジョージじゃないとだめなんだよ。だから、ね、今度、おっきいジョージ買いに行こうね。母はもう一度、そうだねえと言います。父も、そうだな、と俯きがちに笑います。入道雲の間から差し込む太陽の光が真っ直ぐ車の中に入ってきて、妹はまぶしそうにおでこに手をかざします。カーナビから、目的地まで、あと10分です、という女の人の声が聞こえます。ひまわりにしようか、と、ハンドルを左に切りながら父が言います。いいわね、ひまわり。そうしましょう、と母もうなずきます。いつもの花屋さんで、ひまわりを買ってきてくれるみたいです。8月の空には、ひまわりがよく似合います。太陽に向かって真っ直ぐ伸びる、あのくらくらするほどの明るさをたくわえたひまわりがわたしの前に置かれるのを想像して、わたしは思わず目を細めてしまいます。

🌻

 ごめんなさい。お忙しい時に、お邪魔してしまって。3年6組で千里ちゃんといっしょだった、蔵迫凛子といいます。え、本当ですか。わたしの話を、千里が?なんか、ひどいこと、言ってなかったですか?わたし、クラスでいたずらばっかり……千里も、同じような感じですけど。ああ、そう、担任の先生、早川っていう男の先生、わたしも千里も大っ嫌いで。授業中に早川先生の嫌いなところ100個挙げる、とか言って、メモを回したり。お母さんにも、よく愚痴ってたんですか。なんかでも、今思い返すと早川先生は結構いい先生だったな、って思うこともあるんですよ。不思議ですよね。まだ、1年しか経ってないのに、記憶が裏書きされる、っていうか。
 高校は、南高です。同級生の、多分お母さんもご存知だと思うんですけど、清水さん、そう、清水舞です。あと、茅野みずほちゃんも南高に行きました。木幡くんですか?あの、サッカー部の?え、お母さん、木幡くんと千里のこと、知ってるんですか?えー、それはすごい、意外です。千里、そういうことは恥ずかしくてあんまり言えないタイプだと思ってたので。……木幡くんは、南高はだめだったんです。それで私立の、栄高に。南高でサッカーをやりたいって言ってたから、残念ですよね。でも栄高のサッカー部も強いらしくて、絶対エースになるからって意気込んでましたよ。千里、応援に行きたかっただろうなあ。はちまき巻いて、メガホンとか叩いたりして。好きな子の前では必死でしたから、千里は。
 高校、楽しいですよ。本当に毎日毎日、いろんなことがあって。勉強も中学の時とは比べ物にならないくらい難しくて、数学とかは特に、苦手科目だから、赤点ばかりです。部活は、はい、吹奏楽部です。楽器も、中学の時と同じ、トランペットです。南高は吹奏楽も強豪校でトランペットは人気なので、抽選だったんですけど、なんとか、合格したんです。千里の分もトランペット吹きたいって、その一心でした。いえ、ありがとうなんて、そんな……最近、千里の分まで、って思うことが増えたんです。でもそれってわたしの自己満足っていうか、千里が実際どう思ってるのかはわかるはずないじゃないですか。千里の分まで勉強頑張ろうとか、トランペットでこの曲を吹けるようになろうとか。そう思うことでわたし自身頑張れるって感じなので、まあ、いいのかな、って思うんですけど。
 あ、あれ、もしかしておさるのジョージのぬいぐるみですか?千里、好きでしたよね。わたし、正直おさるのジョージって子ども向けのアニメってイメージだったので、ちょっと変わった子かな、とか勝手に思ってて。でも、あの、ビルの窓拭きの話。そう、あれ、面白いですよね。足まで使って、すごい器用に掃除するんですよね。その話を千里から聞いて、わたしも好きになったんですよ。そうなんだ、ちっちゃい頃から好きだったんですね。ふたつ、ちっちゃいのとおっきいのがあるのは……妹さんが?そうか、車に乗せるには大きい方がいいですもんね。シートベルトもぴったり締められるし。千里、嬉しいでしょうね。妹さん……美里ちゃんは、お元気ですか?今年で中学1年生なんですか。ってことは、千里のお下がりの制服、着てるんですね。
 ああ、そうですね。お墓参り、今日この後行こうと思ってます。わざわざ地図まで、ありがとうございます。実は、その、今まで、お墓に行く心の準備ができていなくて。ごめんなさい。あんなに仲良くしてくれてたのに、ばちあたりですよね。あそこには行ったんです。でも、あそこに行ってお花を手向けるのが精一杯っていうか。ごめんなさい、本当に。お母さんの方が、わたしなんかよりずっと、ずっとつらいと思うんですけど。あそこに行った時、ああ、千里が最後にみた光景が、これか、って思うと、なんかもうどうしようもなくなっちゃって。毎月あそこには行ってるんですけど、毎回そんな感じです。全然、慣れとか、なくて。
 あそこの話……アパートが建つって話ですか。はい、張り紙があったので知っています。お花は持ち帰ってください、っていう。ひまわり……そうです、それ、わたしだと思います。ごめんなさい。あそこの土地の持ち主の人には申し訳ないと思うんですけど、やっぱり持って帰る気にはなれなかったので、あのままにしてしまいました。だめですよね。他の人はみんな持って帰ってたし。わたしだけ、そのままで。でも、これは言い訳になってしまうけど、千里がいつあそこに来るかわからないから、持って帰ったらわたしが来たことに気づかないんじゃないかと思うと、なんだか怖くて。それに、あそこにアパートが建って、誰もお花やお菓子を置かなくなって、そしたら千里のことも全部忘れられちゃって、なんか、それってすごく嫌だなって。お墓に行けば千里に会えるって、そういう話じゃないような気がするんです。でも、そうですよね。ごめんなさい。これからは、お墓にお供えするようにします。
 あ、そろそろ、5時になりますね。暗くなる前に、行かないと。長々とお邪魔しちゃって、すみませんでした。はい、トランペット、がんばります。木幡くんの応援、ちゃんとしに行きます。はい、もちろん、千里の分まで。

🌻

 今日は暑かったねえ。でも、夕方になって突然雷が鳴り始めて、雨がざーって降ってきて、びっくりしちゃった。蔵迫さん、ちゃんと来てくれた?ならよかった。あんないい友だちがいるなんて、知らなかった。だって千里、いつも早川先生の悪口とか、そんなことばっかり。清水さんも、茅野さんも、蔵迫さんといっしょに南高に行ったんだって。木幡くんは、だめだったみたい。でもサッカーは続けてるみたいだよ。よかったねえ。木幡くんの話題になるとすぐ、目があっち行ったりこっち行ったりで、もうわかりやすいったらありゃしないんだもの。でも、大丈夫よ。机の引き出しを見たりしないからね。あそこは千里しか見ちゃいけないところだから、お母さんは見たいのをぐっと我慢して、本棚の中や、机の上のメモ帳を毎日眺めています。
 蔵迫さんの制服、すごくよく似合ってた。千里、よく南高のセーラー服を着たいって言ってたもんね。勉強そっちのけで高校パンフレットに見入ったりして。今日、蔵迫さんの制服姿を見て、千里の気持ちがよーくわかりました。千里が着たら、もっともっとかわいかったと思うよ。千里はきゃしゃだから、セーラー服がよく似合うと思う。そうだ、千里の中学校の制服は、今は美里が着てるからね。……って、そんなこと知ってるよね。毎日見てるもんね。千里はみんなのことを見てくれてるんだもんね。
 そうだ、ひまわり、すっごくきれいだったでしょう。今日はあそこの花屋さんで、うんと大きくてきれいなものを選んでもらったの。お父さんが、ひまわり、ひまわりって言うからね。どうだった?千里、気に入ったかな?それと、お菓子もいろいろ置いておいたからね。もちろん、柿の種も。好きだよね、毎日のように食べてたもんね。千里は絶対酒飲みになるなって言ってたよねえ。千里は、枝豆とか、つまみみたいなのが好きなんだよね。二十歳の誕生日になったらみんなで晩酌だな、って、お父さんが。まだ、美里は17なのに、みんなで晩酌って、ほんとにねえ。でもお母さん、千里の二十歳の誕生日には、千里が好きそうなお酒、買ってきてあげるからね。大吟醸とかかしら?ちょっと渋すぎかな。あと4年か。近づいてきたら、何を飲んでみたいか、教えてね。お母さん、奮発するから。
 そうだ、あそこに置いてあったひまわり、やっぱり蔵迫さんが置いてくれたものみたい。千里はもうとっくに気づいてたかしら。ごめんなさい、って、言ってくれたけれど、お母さんも正直どう返したらいいのかわからなかった。蔵迫さんはなんにも悪くないんだもんね。ごめんね。あそこに新しい建物が立つ予定なんだって。ごめんね。ごめんなさい。お花も、お菓子も、もう置けなくなっちゃったの。でも、あそこの土地を持っている方が、供養をしてくれて……供養って何、って感じだよね。千里はちゃんとここにいるのに。供養とかお墓参りとか、お花とかお菓子とか、なんなのってなるよね。だって明後日舞ちゃんとみずほちゃんといっしょにカラオケに行くんだもんね。マツキヨでニベアのリップ買わないとだしね。まだ水曜限定のクーポンだって使ってないよ。『人魚の眠る家』、お母さん実は最後まで読んじゃったけど、千里がまだ半分までしか読んでないから、感想が言えなくてうずうずしてるんだよ。木幡くんの中学最後の試合も見に行くんでしょ。きっぷ代、ちゃんと机の上に置いてあるからね。その前に髪をばっさり切ってイメチェンするんだって、言ってたじゃない。気づいてくれるかなあって、独り言言っちゃったりして。絶対、木幡くん、気づいてくれたよ。それに、ねえ、お母さん、千里がイメチェンしたところ、見たかった。美里が昨日髪を切ったの、千里も見たかな、すごくかわいかったの。千里のも、見たかった。
 あとちょっとだったね。あの信号を渡って、すぐだったのにね。ごめんね。千里。お誕生日、おめでとう。千里の分のケーキは冷蔵庫にしまってあるからね。